読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【C言語】 余弦定理を引数を用いて書く。

こんな感じでしょうか。誰かの役に立てばいいのですが。

 

#include <stdio.h>
#include <math.h>

double yogen(double,double,double);

int main()
{
double a,b,c,y,th; //thはθのこと。

printf("余弦定理は c = √(a*a+b*b-2*a*b*cosθ)です。\n\n");

printf("1辺の長さaを入力:");
scanf("%lf",&a);

printf("1辺の長さbを入力:");
scanf("%lf",&b);

printf("a,bの夾角θを度数法で入力してください。\n");
printf("θ = ");
scanf("%lf",&th);


th = M_PI*(th/180.0); //cosがradしか受け付けないので°からradに変換
y = cos(th);

c = yogen(a,b,y);

printf("対辺の長さcは%lfです。\n",c);

}

double yogen(double e,double f,double g)
{
double h;

h = sqrt(e*e + f*f - 2*e*f*g);

return h;
}

【C言語】 原点からの距離を求めるプログラム

最近C言語はじめました。難しいというか、覚えられないですね。

関数やら、引数やらポインタ変数やらややこしいですし。

知恵袋で調べてもよくわからない関数使ってくるし。

精進します。

 

//原点からの距離を求める。

#include<stdio.h>
#include<math.h>

double kyori(double,double);

int main()
{
double x,y,r;

printf("x座標を入力:");
scanf("%lf",&x);

printf("y座標を入力:");
scanf("%lf",&y);

r = kyori(x,y);

printf("r = %lf\n",r);

}

double kyori(double a,double b)
{
double s ;

s = sqrt(a*a + b*b);

return s;

}

「いらっしゃいませ、こんばんは。」という店員さんの、初対面なのにいきなり肩組んでくるやつ感は異常

「いらっしゃいませ」に続く言葉として、「こんばんは」という店員さんが増えてる気がする。

丁寧でいいと思うし、何よりその会社(店長)の方針なのだから仕方があるまい。だが、少し、ほんの少し、恥ずかしくなる。

「いらっしゃいませ」という店員丸出しの声出しに続く言葉として、「こんばんは」と言うのはどうだろうかと思うのだ。

「こんばんは」は挨拶の言葉である。普通挨拶するのは知り合い以上の人のみであることは想像に難くない。それゆえ、店員さんに「こんばんは」と言われると少し身構えてしまう。

 

こいつ、肩組んでくるんじゃないか、と。

 

勿論そんなことはありえないのだし、もし組んできたら、そいつは店員を超えた何者かになるのだし、心配する必要はないのだ。

だが、「こんばんは」と言われるたびに思ってしまう。

私だけだろうか。

水葬銀貨のイストリア 体験版 感想

f:id:sinth:20170122133754j:plain

kagura.rdy.jp

 

体験版終わりました!!

非常に面白かったです。前作でも思ったのですが、伏線の貼り方が上手いですねえ。感服です。

リフルシャッフルに震えました。かっこよすぎでしょう。

私自身、俺つえー系は好き嫌いが激しいのですが、この作品は素晴らしく私の好きな俺つえー系です。濡れます。

また生きる理由となるエロゲに出会ってしまいました。

f:id:sinth:20170122133954j:plain

f:id:sinth:20170122134332j:plain

f:id:sinth:20170122134341j:plain

「自分で考える」ということについての考察 1

 僕は希望として述べておきますが、まだいまの所ではしやうがない。出来るだけ多くの人に会はぬ方がよろしい。――僕は生意気なことを言つた。…………

中原 中也 『小林秀雄小論』より引用

 

「自分で考える」これは非常に難しいことである。

誰かが考えるのではない、「自分で考える」のである。果たして今の日本に「自分で考える」事ができる人が何人いようか。数えるほどしかいないだろうと思う。勿論私は「自分で考える」側の人間ではない。

誰かが考えた事を頼りに生きている側の人間だ。誰かの言葉にしがみつきながら生きている。

 

ここで学校教育の弊害と話を進めていくのは、あまりいい方針である気がしないのだが、進めていく。学校教育は「ここが試験に出るから覚えろ。」「○○大学はこんな問題をよく出すぞ。」非常につまらないと感ずる。若き日の私は何かイライラしたものを感じた。

 

もっと大切なことがあるのでは?

 

そう悶々とし続けた。その「大切なこと」は今も言葉にはできないし、イメージもあやふやで取り付く島もない。

 

ん?

 

「自分で考えている」ではないか!!!

言葉にできないが、何かを考えている。そのことは確かに私にも存在したのだ。

学校教育の弊害?つまらぬことを言うな。考えられる人はどこでも考えられるのだ。

(だが、確かにお勉強が得意な猿のような人は高学歴と呼ばれる人たちの中にも多いのはたしかである。私もそれに入るかもしれない。それ以前に、私はそもそも高学歴かどうかも怪しかった。

 

私を含めてこの種の「考える人」は哲学や文学に傾倒していく傾向がある。(理論物理や数学もあるやもしれない。)まあ、あくまで私の個人的な推察?経験則?ではあるのだが、たしかにそのような傾向がある気がする。

 

私は「考える人」は社会に馴染めなかった人ではないかと思う。社会からあぶれた人、もしくは自分から社会を捨て去ろうとしている人出ないかと思うのだ。

普通に社会に生きていて、哲学や文学に傾倒することがあろうか。いや無いだろう。

 

実はわたしは完全なあぶれ者ではない。申し訳ない。まだどこか社会に未練がある故か、哲学や文学に貪るように触れる。という経験をしていない。

 

「考える」ためには我々は社会を捨てなくてはならないのかもしれない。

本のつまみ食い問題について

あけましておめでとうございます。

 

さて、今回は結構自分を悩ませている問題について考えます。

それは、「本のつまみ食い」です。

なんだそれ。そうお思いでしょう、そうでしょう。いや、もしくは自分もそうですッ!という人も多いかもしれない。そもそもこのブログを見ている人がいるのかという問題もあるのだが、それは仕方ない。

 

f:id:sinth:20170107220221p:plain

 (自分で書きました。絵を描くツールって使い所あるんすかねこれ。)

 

「本のつまみ食い」とは数多くの本が途中まで読んである状態で放置されている状態である。

ここで、ああッ!あるあるッ!と私に共感してくれた人も多いだろう。ありがとう。

ところで、「本のつまみ食い」は私の造語であると思っていたのだが、Googleを問いただすと、外山滋比古氏も『乱読のセレンディピティ』のなかで似た言葉を用いているようです。(外山さんは『思考の整理学』しか読んでないです。)

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

まあ、仕方ない。被ることもあるだろう。パクリとかではないので怒らないでほしい。

いま、私の言いたいことは「乱読」とは少し違う。確かに「乱読」なのだが、意識して「乱読」することとは次元が違う。

すべて通読したいと願いながらも、途中で挫折して(もしくは読んでいることを忘れて)他の本に手を出すのである。アホである。

浮気性である。最悪だ。もしも私に彼女なるものができたと仮定したならば、彼女なるものに「あんたッ!浮気してたのねッ!」と罵倒されることだろうと帰結できる。

 

そういうわけで今、私の部屋には数多くの不倫本が散らばっている。つまみ食うだけつまみ食って捨てられた過去の哲学者たち。

私はどうにかして救いたい。無残に読み捨てられた不倫本たちを。(不倫本ってなんだよ。)

 

解決したらまたここに書きますね。

大学1年生における物理学実験の意味と意義とは

物理学実験。名前を聞くだけでワクワクする人もあれば、疲れるだけだと感じる人もあるだろう。

果たして実験に意味はあるのだろうか。と思う学生は少なくないようである。私の友人にも「単位を取るため」に実験をこなすというスタンスの人も多い。

 

ところで「単位を取るため」という言葉に嫌悪感を覚えるのは私だけだろうか。

確かにそうであるし、自分も結局は単位を取るために大学に行き、授業や実験を受けるという状態にあるのだが、それでもやはり不愉快である。

 

話がそれた。

私がここで明らかにしたいのは、大学1年生における物理学実験という苦行?が如何に重要であるかということである。

ミリカンの実験、重力加速度の測定、音速の測定、光速の測定、ヤング率の測定、etc...

実験の内容を見てほしい。私の大学だけかもしれないがそうそうたる面々である。

量子力学超弦理論。物理学の最先端に比べるとどこか昔話を聞かされているようなそんな感覚。

だが、私はこの古典的実験に大変な意味と意義を感じる。

レポートの書き方?ノギスの使い方?違う。そこに重要さはない。

本来的な重要性。なんだろうか、私はそれを掴んだ気がする。

牧歌的世界観。今あるこの世界。ミクロな世界は本質であってもこの目に見えている世界ではない。

この目に見えている世界に対する挑戦であると感じる。今ある世界を解き明かす。創造者に一歩近づいたようなそんな感覚。

大学1年生であるからこそ無垢な知識と目でもって実際の世界を解き明かす。

そんな、意味があるかもしれない。

 

このような感覚。私だけであろうか。