未熟思考の捨て場

思い浮かんだ考えの断片。もしくはもっと低俗なもの。

「自分で考える」ということについての考察 1

 僕は希望として述べておきますが、まだいまの所ではしやうがない。出来るだけ多くの人に会はぬ方がよろしい。――僕は生意気なことを言つた。…………

中原 中也 『小林秀雄小論』より引用

 

「自分で考える」これは非常に難しいことである。

誰かが考えるのではない、「自分で考える」のである。果たして今の日本に「自分で考える」事ができる人が何人いようか。数えるほどしかいないだろうと思う。勿論私は「自分で考える」側の人間ではない。

誰かが考えた事を頼りに生きている側の人間だ。誰かの言葉にしがみつきながら生きている。

 

ここで学校教育の弊害と話を進めていくのは、あまりいい方針である気がしないのだが、進めていく。学校教育は「ここが試験に出るから覚えろ。」「○○大学はこんな問題をよく出すぞ。」非常につまらないと感ずる。若き日の私は何かイライラしたものを感じた。

 

もっと大切なことがあるのでは?

 

そう悶々とし続けた。その「大切なこと」は今も言葉にはできないし、イメージもあやふやで取り付く島もない。

 

ん?

 

「自分で考えている」ではないか!!!

言葉にできないが、何かを考えている。そのことは確かに私にも存在したのだ。

学校教育の弊害?つまらぬことを言うな。考えられる人はどこでも考えられるのだ。

(だが、確かにお勉強が得意な猿のような人は高学歴と呼ばれる人たちの中にも多いのはたしかである。私もそれに入るかもしれない。それ以前に、私はそもそも高学歴かどうかも怪しかった。

 

私を含めてこの種の「考える人」は哲学や文学に傾倒していく傾向がある。(理論物理や数学もあるやもしれない。)まあ、あくまで私の個人的な推察?経験則?ではあるのだが、たしかにそのような傾向がある気がする。

 

私は「考える人」は社会に馴染めなかった人ではないかと思う。社会からあぶれた人、もしくは自分から社会を捨て去ろうとしている人出ないかと思うのだ。

普通に社会に生きていて、哲学や文学に傾倒することがあろうか。いや無いだろう。

 

実はわたしは完全なあぶれ者ではない。申し訳ない。まだどこか社会に未練がある故か、哲学や文学に貪るように触れる。という経験をしていない。

 

「考える」ためには我々は社会を捨てなくてはならないのかもしれない。